原爆の父オッペンハイマーと科学達の罪と罰に迫る

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アメリカ・ニューメキシコ州
1945年7月7月16日、ここである歴史的実験が行われた。
人類史上初めての核実験。人間が原子爆弾という兵器を生み出した瞬間だ。
その巨大な力を生み出したのは神でも悪魔でもない!人間である。

オッペンハイマー、世界の破滅者

原爆の父と呼ばれた物理学者ロバート・オッペンハイマー

いかにしてこの男は原子爆弾を作りだしたのか?

始まりは1938年ドイツ

二人の科学者が核分裂を発見した。

O・ハーン、F、シェトラスマン

物質を構成する原子、その中核成す原子核に中性子をぶつけると二つに分裂する事が分かった。

これが核分裂である。

この時、巨大なエネルギーが放出される。

これに科学者たちは注目した。

そして核分裂を連鎖的に起こす、核分裂連鎖反応を発見。

より莫大なエネルギーを引き出せると考えた。

当時、ドイツはヒトラー率いるナチスの支配下。

今にも戦争を始めようとしていた・・・。

ヒトラーが巨大なエネルギーを手にすれば恐ろしい兵器を作るに違いない!

いち早く危険を察知したのは科学者たちだった。

ナチスから逃れアメリカに亡命していたユダヤ人物理学者、アルベルト・アインシュタインもその一人だ!

危機感を持った科学者たちの呼びかけに答え、アインシュタインはアメリカ大統領への手紙に署名した。

「この核分裂連鎖反応は爆弾の製造にもつながります!それも極めて強力な新型爆弾を製造することが考えられます」と

近い将来、ドイツで原子爆弾の製造が可能になると警告!

そこには、アメリカにドイツよりも先に原爆を開発するよう促す狙いがあった。

アメリカ合衆国大統領、フランクリン・ルーズベルトは、原子爆弾の製造を決意する。

1942年8月ニューヨークに司令部を設置

マンハッタン島ブロードウェイ270番地

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ここに、「マンハッタン計画」が誕生した!

化学部門の責任者に選ばれたのは、物理学者のロバート・オッペンハイマーだった。

1904年4月22日、ユダヤ系アメリカ人として生まれたオッペンハイマーは少年時代から、語学、歴史、科学と様々な学問に興味を抱きそ、そして秀でた。

その教養を武器に、あらゆる分野の問題に対応する事が出来ると軍の上層部が目を付けた!

オッペンハイマーは観察力が非常に鋭く、そして頭の回転が極めて速かったのだ。

要するに原子爆弾を早急に開発できる実践的能力にぬきんでていたのです。

オッペンハイマーは計画の拠点となる研究所の場所を選定した。

広大なアメリカの国土から選んだのは、マンハッタンから3200㎞離れたニューメキシコ州ロスアラモス!

崖の上に広がる独特の地形が決めてだった。

周囲から隔絶された辺境の地、機密保持には最適だった。

原爆製造の科学者の人選

オッペンハイマーはまず、一流の科学者だけに狙いを絞った!

すでにノーベル賞を受賞していた物理学者エンリコ・フェルミ

後にノーベル賞を受賞する物理学者ハンス・ベーテ

戦後コンピューターの基礎を築く事になる数学者フォン・ノイマン

有名科学者に憧れ、若手科学者たちも大勢集まった。

オッペンハイマーの狙い通りだった!

原爆研究環境の整備

原爆開発は陸軍主導のプロジェクト

軍は機密漏洩を防ぐため、科学者同士の会話さえ制約しようとしていた。

しかし、オッペンハイマーは、科学者全員が意見を言えなければならないと軍に認めさせたのです。

科学者とその家族たちが集まり、研究所の周りに街が作られた。

オッペンハイマーは、科学者が心置きなく研究できるよう環境を整えたのだ。

こうして、ロスアラモス研究所完成

所長に主任したオッペンハイマーのもと原爆開発が動き出したのだ!

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最初の核爆弾誕生

最初に取り組んだのはウランの核分裂利用した爆弾「濃縮ウラン」だ!

筒の両端に濃縮ウランを配置し高速でぶつかり合わせる事で核分裂を引き起こし爆発させるのだ!

しかし、ウラン型爆弾には欠点があった。

原料となる濃縮ウランを生成するのに膨大な手間と費用が掛かり兵器として量産が出来ない!

そこで目に付けたのが、「プルトニウム」濃縮ウランよりも容易に作ることが出来き大量生産が可能だった。

ただし、ウランと同じ方法では、上手く核分裂をさせる事が出来ない。

科学者たちは、プルトニウムを急激に圧縮すれば核分裂を引き起こせるのではないかと考えた。

プルトニウムを火薬で覆い、それを爆発させることで圧縮させる「爆縮」と言う方法だ。

しかし、爆縮によってプルトニウムに均等に圧力を与えなければならなく研究は壁に突き当たった。

そこで、オッペンハイマーは理論と技術それぞれの専門家に知恵を求めた。

まずは理論・・・爆弾の威力や弾道の計算で第一人者だった数学者のフォン・ノイマンに設計を委ねる。

ノイマンは、均等にプルトニウムを圧縮するには火薬の種類や配置をどうすれば良いか計算で割り出した。

そして一つの答えにたどり着いた。

プルトニウムの周りを32の区画に分けて火薬と点火装置を配置するというもの。

均等かつ同時に圧縮することが理論的に可能になった。

1945年8月・・・ついに怪物が誕生した!

原子爆弾を生み出す核分裂の連鎖反応!それは人類が作り出した究極の暴走だ!

1944年6月6日連合軍はドイツ占領下のフランス、ノルマンディ上陸作戦に成功!

8月25日には、ヒトラーの支配下にあったパリを奪還!

ナチスドイツの敗戦が濃厚になったいった。

更にアメリカ軍諜報機関部長のアルソスがドイツの原爆に関する新たな情報を入手する。

ドイツは、原子爆弾を作ってはいなかった

ドイツの原爆開発を恐れて始まったマンハッタン計画。

その大義が失われた・・・・

故郷ポーランドで妻をナチスに殺された物理学者ジョセフ・ロートブラッド。

もはや原爆を作る必要はない!

1944年の冬、ロートブラッドはただ一人ロスアラモスを去った。

オッペンハイマーの教え子で物理学者のロバート・ウィルソンは悩んでいた。

原爆の開発を続けるべきか?その是非を問う集会を開きたいと考えた。

しかし、オッペンハイマーは反対したのだ。

軍の意向をおもんばかるオッペンハイマーに失望したウィルソンは集会を決行する。

すると驚いたことに参加者の中に、オッペンハイマーの姿があったのだ!

オッペンハイマーは、発言の機会を得て語り始めた・・・・

「原爆はアメリカの軍事機密となりいつ新たな戦争で使われるかわからない!むしろ原爆を完成させて世界中の人々に原爆の恐ろしさを知ってもらえば、
国際平和を話し合う良い機会になる」

オッペンハイマーは、原爆が世界平和に繋がると同席した科学者達を納得させたのである。

彼の野望は、出来るだけ早く原爆を作る事、それはプライドや野心、出世欲だったのかもしれない。

1945年5月7日、ナチスドイツ無条件降伏

原子爆弾開発の目的は消え失せた!

しかし、アメリカにはもう一つの敵がいた・・・日本だ!

太平洋戦争で激闘を繰り広げ多くの死傷者を出していたアメリカは日本への原爆投下を検討していた。

オッペンハイマーや、他の科学者たちもその議論に参加していた。

同じころ科学者の一部から日本への投下は望ましくないとの意見が出ていた。

すでに空襲で壊滅状態の日本に原爆を使うことが本当に必要なのか?

砂漠などで、原爆のデモンストレーションをすれば戦争を止める事が出来るのではないか?

議論は真っ二つに分かれた。

デモンストレーション賛成派

①原爆を実践で使うのは人道に反する
②もし使用すればアメリカが国際的な批判を受ける

原爆投下賛成派

①実戦で使用しない限り日本の戦争指導者を降伏させるのは難しい
②原爆を使って早期に戦争を終結させれば多くのアメリカ兵の命が救われる

オッペンハイマー達の最終報告書

「我々は戦争を終結させる手段としてデモンストレーションを提案する事は出来ません。
つまり原爆の直接的軍事使用のほかに考えられません。」

結論は・・・日本への原子爆弾投下だった!

1945年7月「トリニティ実験

爆発させるのは、プルトニウム型爆弾

1945年7月16日、午前5時29分45秒

爆発の瞬間、真昼の太陽数個分の閃光が半径30㎞を照らした。

巨大な火の玉は、やがてキノコ雲となり高度3000mの地点まで上昇。

爆発音は160㎞先まで聞こえ、200㎞先の窓ガラスが割れたという。

オッペンハイマーは、ただ一言・・・「うまくいった・・・・」とつぶやいた。

開発を続けるべきか悩み続けたロバート・ウィルソンは「ひどいものを作ってしまった」と座り込んだ!

そしてオッペンハイマーは、詰め寄った科学者にこう言われた「オッピーこれで俺たちはみんなクソッタレだよ」と。

人類史上初の原子爆弾投下

3週間後の1945年8月6日 広島

ウラン型原子爆弾リトルボーイ投下

1945年8月9日 長崎

プルトニウム型原子爆弾ファットマン

二つの爆弾が日本に投下された!

原子爆弾の開発は、科学者にとって悪魔との契約でした。

この契約は、いったん交わしたら撤回できない。

日本に対して核兵器を使用したことは世界の歴史で最も重要な出来事になりました。

我々人類はいつの日か恐ろしい代償を払う事になるでしょう。

1945年8月15日
日本の無条件降伏によって第2次世界大戦終結!

オッペンハイマーは、戦争を終わらせた原爆の父として一躍国家的な英雄となった。

1947年プリンストン高等研究所 所長に就任

配下には、あのアインシュタインもいた。

1949年8月ソ連が原爆開発に成功

対抗してアメリカは1952年、原爆の数百倍の威力を持つ水素爆弾の開発に成功。

オッペンハイマーは、水爆開発を批判。

原爆を小型化すれば戦場の限られた標的だけに使える。
そうすれば民間人を巻き添えにすることもないという理由だった。

政府の政策に否定的な発言を繰り返したオッペンハイマーは、1953年政府からソ連のスパイ容疑のぬれぎぬを着せられ公職から追放される。

オッペンハイマーは、原爆で忠誠を捧げたアメリカに捨てられた・・・

かつての国家的英雄の姿は世間から次第に忘れ去られていった。

晩年オッペンハイマーは、日本への原爆投下を後悔していたという。

1967年2月18日ロバート・オッペンハイマー死去 62歳

咽頭がんだった。

オッペンハイマーの教え子で原爆開発を続けるべきか集会を開いたロバート・ウィルソンは

1967年フェルミ国立加速器研究所 所長に就任

「ドイツ降伏の時点でロスアラモスから去るべきだった」と終生後悔した。

ただ一人、ロスアラモス研究所を去ったジョセフ・ロバートブラットは

イギリスに渡り、核兵器と戦争の廃絶を訴えるハグウォッシュ会議 初代事務局長を務め。

1995年にノーベル平和賞を受賞した。

そしてアインシュタインは・・・

原爆開発に署名したことを死ぬまで悔やんだという。

原爆の誕生を生涯悔やんだアインシュタイン、後に彼はこう語っている・・・

この世には無限な物が二つある、宇宙と人間の愚かさだ!」と

広島、長崎の原爆被害者のご冥福をお祈りいたします。

そして二度とこのような悲惨な戦争が起きない世界平和を願います。

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