聖徳太子は存在しなかった?古代史架空説の謎に迫る

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お札の顔としても知られる「聖徳太子」

厩戸皇子(574頃~622年頃)古代日本が国づくりをする際に重要な役割を果たした人物。

ところが日本人なら誰でが知る英雄に、ある疑惑が・・・

なんと「聖徳太子はいなかった!?」

そんな聖徳太子の謎に迫る。

 

聖徳太子架空説

そもそも今に残る聖徳太子の人物像は、後世になってから描かれた物であり

実際の姿、形に関しては全くの不明!

架空説が流れる程、聖徳太子の実態は殆ど分かっていないのです。

日本最古の正史「日本書紀」

聖徳太子の業績は、確かにこの歴史書に記されてはいます。

しかし、例えば”憲法十七条

通説では、聖徳太子が自ら作ったものとされてきました。

だが、日本書紀を詳細に分析すると・・・

本当に聖徳太子の業績なのか疑惑が浮上するのである。

逆に現在進む発掘調査からは聖徳太子の優れた業績が裏付けされています。

果たした・・・聖徳太子は架空!?実在!?何者なのか

聖徳太子の実像を追うと古代史の大きな謎に行き当たります。

日本を大きく動かした「乙巳の変」「大化改新」

 

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聖徳太子のルーツ

大阪・四天王寺1400年前、聖徳太子が建立したと伝えられる日本最古のお寺の一つ。

その隣に建つ病院の祭壇にたっているのは「聖徳太子孝養像」少年の頃の聖徳太子の姿です。

そもそも聖徳太子は6世紀後半から7世紀にかけて実在した皇族の一人。

当時の日本は、法律や制度がなく国の基礎が整っていなかった。

一般的に広まっている聖徳太子の人物像と業績とは

・同時に10人の話を聞き記分けた

・未来を予言した

・憲法十七条の制定

・冠位十二階の制定

・仏教の導入

・遣隋使

これらの人物像や業績は、その聖徳太子が亡くなってから100年後に作られた書記「日本書紀」に記載されている。

その中に「厩殿皇子は推古天皇の皇太子になり、政治の全てをつかさどった」と記載されている。

これらの偉大な業績を全て一人で成し遂げた超人的な人物像が後に”聖徳太子”と呼ばれた。

 

日本書紀の疑問

日本書紀は、593年厩戸皇子が皇太子になったと書いてあるが、

しかし、この時代に皇太子制度は存在していなかった!

皇太子とは・・・天皇存命中に選ばれる唯一の皇位継承者の事。

しかし、この時代では天皇が亡くなってから次の天皇を決めた為、皇太子は存在しなかった。

明らかな矛盾の日本書紀。

結局の所、厩戸皇子は実在したが、聖徳太子とは・・・

偉業を成し遂げた人たちをひとまとめにした「集合代名詞」と言われている。

聖徳太子が活躍したの時代は、飛鳥時代は

天皇を中心に皇族、豪族が権力を競い合っていた時代。

豪族の力関係で国が左右される時代だった。

 

では厩戸皇子の業績とは

斑鳩宮(いかるがのみや)と斑鳩寺を作り移り住んだ。

この奈良県にある宮殿と寺の跡が「日本書紀」の記述どおり。

斑鳩で宮殿に住む人物の記録は厩戸皇子のみと記されている。

601年 斑鳩宮 造営開始 完成は605年

この頃、日本は国際外交で大きな転換期だった。

この斑鳩宮の特徴は立地条件です。

都の飛鳥から大和川を下り難波津が近くにあります。

ここに拠点を選んだことが更に大きな業績へとつながります。

それは海外の歴史書「隋所」に倭国伝ここには600年日本から使者が来たと記録されている。

いわゆる遣隋使です。現代の外交官

 

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憲法十七条の謎

憲法十七条の条文は文法上の誤りが19箇所みられる、単なる誤字ではなく

推古記の書き手独自の文法上の誤りである。

確かな証拠はないが推古記は厩戸皇子の書き写しではなく、新たに作り出された可能性があるのだ。

現代の教科書では、憲法十七条は誰が作ったかの主語はなく、定められたとのみ書かれている。

以前は、「聖徳太子は憲法十七条を制定」と記載されていた。

これらの記述は、いろんな知恵が集まった集合体であった為、

分かりやすくする為、1人の「主人公」として聖徳太子を必要としたのかもしれない。

日本初書記の最終段階で、より聖人君子として特別な人間とし描こうという意図が働いていた。

日本書紀は「乙巳の変」「大化改新」を正当化する為に、

万能の英雄「聖徳太子」が必要だったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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