アマデウス・モーツアルト天才作曲家の不可解な死の謎に迫る

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1823年オーストリア73歳の老人がウィーンの病院に入院しました。
老人は30年前に人を殺したと告発すると酷く取り乱し自殺を図りました。
彼が殺したと言い張る偉大な作曲家は・・・「モーツアルト」
その悲劇的な死は200年物間謎に包まれてきました。

様々な調査の結果殺人を含めて100以上の様々な仮説が生まれました。

モーツアルトの幼少期の病歴から悲惨な最期までが医学的視点から新たに調べ直されました。

幼少期の病歴から悲惨な最期まですべてを調査しています。

医学的にも大きな謎です。

長年のミステリーを解き明かし真相を明らかにする時が来ました。

モーツアルトは何故死んだのでしょうか?

幼少期のモーツアルトは幼くして音楽の才能を開花させました。

しかし、その死は苦痛に満ち謎に満ちています。

現在でもはっきりした死因は不明です。

1791年11月20オーストリア・ウィーン。

モーツアルトの死因を探るカギはこの日に隠されている様です。

この時モーツアルトは35歳新しい曲作りに没頭して疲れ切っていました。

その曲は「レクイエム」死者の為のミサ曲です。

これが死の第一歩でした。

モーツアルトは気分が悪くなり横になります。1~2日すれば回復すると考えていました。

でも違いました。

妻のコンスタンツェとその妹が懸命に看病します。

主な症状は、高熱と腫れを伴う関節の痛みでした。

コンスタンツェはウィンの医者を呼びます。

街で評判の医師、クローゼットとサラバです。

当時の医学は現在ほど発達しておらず医療器具もありません。

医師は、聴診器や体温計ですらも無い中で診察しました。

まず、触診で熱を確かめました。

尿の色やに臭いをチェック。そして何回か静脈を切開し血液を抜きます。

当時の考えでは、体内の過剰な水分が病気の原因でした。

2週間かけ、モーツアルトの体から抜かれた血液は実に2.5リットル。

全血液量の半分です。

病状は悪化しました。

しかし、医師が全く役に立たなかった分けではありません。

診察の結果、体に現れた発疹を見つけたのです。

発病して2週間で体液が溜まり浮腫が現われました。

おそらく体はパン生地のように膨らんでいたでしょう。

体を前に曲げることも、自分で座ることも出来ませんし、起き上がるにも介助が必要でした。

1791年12月4日 発病から14日後 熱はますます高くなり体中から汗が吹き出します。

クロゼット医師は燃える様な額に冷たい湿布を置きました。

モーツアルトはすぐに失神します。

気を失っていたのはその2時間。

彼は突然目を覚ましました。

コンスタンツェは夫の死後をこう語ります。

「夫は突然激しく嘔吐しました。茶色い液体を吐きなくなりました」

医師が下した診断は重度の粟粒熱(ぞくりゅうねつ)でした。

高熱と細かい発疹が特徴の病気です。

この時の診断結果とその他の症状を検証すれば死因の謎は解明できるかもしれません。

天才モーツアルトはどうして死んだのか?

先進医療の専門家3人が謎解きを試みました。

導き出されたのは三者三様の結論です。

フィッジェラルド医師が研究結果について語ります。

医療の専門家としてすべての手がかりを集め、あらゆる可能性を考慮します。

鋭い推理力と医学的知識を駆使し考えうるすべての可能性を検証します。

それらにより症状の原因を特定します。

発熱、発疹、浮腫み、関節の痛みこれらの症状の原因は無数にあります。

フィッジェラルド医師はモーツアルトの幼少期からの病歴を調べ原因を絞り込みmした。

モーツアルトは、幼少期から青年期にかけてどんな病気にかかったのでしょうか?

過去の病歴が死因に関係しているかもしれません。

死亡原因と同じ病気を子供の頃に患っていた可能性があります。

実際、そうでした。

死因を特定する調査は1756年オーストリアのザルツブルグから始めます。

モーツアルトはこの町の音楽一家に生まれます。

姉ナンネルはピアノの名人。

そして父は名バイオリン演奏で作曲家でした。

しかし、モーツアルトはただの神童ではなくその音楽的才能は人並み外れていました。

モーツアルト少年は、人形のように小さな手でハープシコードを自在に演奏しました。

まだ幼い子供でありながら様々な思考を凝らしてピアノやバイオリンを弾きます。

彼の演奏を聴いた人は皆、一応に驚きました。

父親は、息子の素晴らしい才能に気づき自分の音楽活動を諦めます。

そして、その息子はわずか5歳でメヌエットを作曲しました。

どんな作曲家でも最初に書いた曲は可能性や才能が秘められていても大抵どこか未熟なものです。

しかし、5歳のモーツアルトが初めて作曲した曲は違います。

1762年モーツアルトが6歳になるとレオポルトは家族を家族を演奏旅行に連れ出します。

人前で演奏をさせる事で才能豊かな子供たちの更なる飛躍を促しました。

父親は息子の才能を伸ばそうと必死でした。

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モーツアルトの才能を伸ばす旅が寿命を短くした

この演奏旅行がモーツアルトの人生を形成します。

沢山の経験を積み人前で演奏することにも慣れ音楽界へのつながりを得ました。

これは、彼が作曲家になる為の足がかりとなったのです。

この長旅で一番の失敗は子供の健康への影響でした。

父親は次々に演奏の予定を組みました。

演奏で得られる収入は大きな魅力だったからです。

まだ幼い子供を休む間もなく働かせるのは感心できません。

慣れない食べ物や衛生環境の変化に対応しなければなりません。

馬車や船の移動中モーツアルト少年は海の冷たい風にさらされながら移動したのではないでしょうか。

宿屋では、ノミに悩まされて眠れません。

彼は、行く先々で新しい病気や感染症に接触したのです

危険を伴う旅でした。

幼いモーツアルトは病気と隣り合わせでした。

当時のヨーロッパは人口が密集していて伝染病が流行しやすい状況でした。

フィッジェラルド医師はモーツアルトの即席を辿る過程で父レオポルトの手紙を見つけました。

そこには、息子が腸チフスと天然痘を患ったとあります。

地変危険な病気でモーツアルトは危うく死にかけました。

しかし、最も気になるのは1962年10月に患った病気です。

そして、これこそがモーツアルト死因を解き明かす鍵となるかもしれません。

この時、6歳のモーツアルトはウィーンにいました。

6歳の天才ピアニストはオーストリアの女帝マリア・テレジアの前で素晴らしい演奏を披露します。

その夜、モーツアルトは熱を出して寝こみ父親に腰と尻の痛みを訴えました。

レオポルトが症状を詳しく書き残しています。

「息子がベッドに入ってから息子の痛がる場所を調べると赤い斑点がありました。

大きさはコインほどで、腫れていて触ると痛がりました。

伯爵夫人の主治医を呼び症状を説明しました。

医師の診断はしょう紅熱でした。」

18世紀、しょう紅熱は命に係わる重病で主に子供がかかりました。

その症状は、喉の痛み、発熱、そして腫れのない赤い発赤です。

しかし、モーツアルトの体に現れたのはしょう紅熱の発疹ではなくリュウマチ熱でしょう

もっと恐ろしい病気です。

リウマチ熱はどこにでも存在する連鎖球菌が引き起こします。

理由は分かっていませんが、患者の免疫システムが連鎖球菌だけではなく自分自身の組織も攻撃します。

その結果として様々な症状が現れます。

関節炎や発疹はその一例でですが、最も恐ろしいのは心臓弁に長期にわたって損傷を与えることでしょう。

心臓弁は血液を送り出す大切な門です。

リウマチ熱は、感染した回数が多いほど再感染しやすくなります。

何度も感染を繰り返す危険な病気です。

ヨーロッパ演奏旅行に患った病気が心臓に致命的な損傷を与えたのです

 

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リウマチ熱の再発

1791年35歳のモーツアルトのは再び連鎖球菌に感染しリウマチ熱を発病したと言うのです。

発疹、高熱、関節の痛みすべて症状は、リウマチ熱の症状と一致います。

同時にモーツアルトのの全身はひどく腫れあがっていました。

この症状こそが病気で心臓が損傷を受けていたことの動かぬ証拠です。

自分で体を動かせないほどのひどい腫れ方でした。

リウマチ熱による心不全の典型的な症状です。

これは、うっ血性心不全といいます。

度重なるリウマチ熱の発病でモーツアルトの心臓は損傷を受けました。

傷ついた心臓弁から血液を送ると心臓は肥大します。

心臓弁が傷つくと血液の通り道はとても狭くなります。

狭い場所から血液を送り出す為に心筋は厚くならざる得ません。

心臓が病気で弱ったり心臓に傷跡があると効率的に血液を送り出すこと出来なくなる。

その結果、血液の逆流が起こります。

やがて、血清や水分がしみ出で体の組織に入り込むのです。

浮腫の原因は血液からしみ出た水分でした。

やがて肺にも水がたまり呼吸ができなくなります。

モーツアルトの死因はリウマチ熱と診断しました。

この学説が現在有力です。

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