マリー・アントワネットは生きていた!?封印された死の謎に迫る!

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王妃マリー・アントワネット、彼女はフランス革命の嵐の中、1793年に民衆の目前で処刑されてしまう。

ところが・・・次々に不審な点が幾つも発見される。なんと身代わりが存在したのだ。

暗号文に隠された真実!さらにDNA鑑定で衝撃の結果、マリー・アントワネットだけが不一致。

処刑されたマリー・アントワネットは身代わりだったのでしょうか?

マリー・アントワネットは生きていた!?

サン=ドニ大聖堂 (フランス)

ここには王家歴代の墓があり、マリー・アントワネットも埋葬されている。

王妃の遺体は処刑後しばらく野ざらしにされていたという。

死後、20年以上経ってからここに移され夫ルイ16世と共に埋葬された。

ベルサイユ宮殿とマリー・アントワネット

ベルサイユ宮殿が完成したのは1682年、世界中に植民地を作り

「日の沈まない国」を築いたルイ14世が絶対王政の威厳を示すために建造した。

大宮殿の完成は、ヨーロッパ中の羨望を集めた。

人々を羨望させたのは宮殿だけではない。

宮殿の西に広がる幾何学模様が美しい100万㎡の大庭園、

セーヌ川から水を引き大小1400もの噴水が当時のまま稼働している。

噴水の彫像にルイ14世の象徴「アポロンの泉水」をはじめ古代神話の世界が表現されている。

世界中の観光客を引き付けてやまないベルサイユ宮殿。

人類の創造的才能を表現する作品として1979年にフランスで最初の世界遺産に登録された。

敵対関係にあったハプスベルク家さえもベルサイユ宮殿を模倣してシエーンブルン宮殿を立てた程である。

マリー・アントワネットは、この宮殿で豪華な生活を送っていたのだ。

オーストリア・シエーンブルン宮殿

ハプスベルク家に生まれたマリー・アントワネットは、14歳の時幼くして政略結婚。

相手は敵対する、フランスブルボン家の皇太子ルイ・オーギュスト後のルイ16世である。

1770年4月21日

ウイーン・シエーンブルン宮殿 を経ったマリー・アントワネットは25日間かけてベルサイユ宮殿に到着した。

マリー・アントワネットとルイの結婚

結婚式が行われたた王室礼拝堂

豪華なベルサイユ宮殿にあって厳かな場である王室礼拝堂。

吹き抜けの天井はおよそ25m。

ドームには復活するキリストの絵が描かれている。

ここでは、毎朝2階の特別席から国王がミサを執り行っていた。

当時のフランスでは、国王は神の代理人とされていたのだ。

白を基調にした明るい内部。

二人の結婚式はここの礼拝堂で行われた

およそ6000人もの貴族に見守られながら盛大に行われた。

結婚式の際には三日三晩、仮面舞踏会が開かれたという。

結婚式を終えた二人は司教立ち合いのもと初夜を迎えた。

ところが・・・

実はルイは内向的な性格でマリー・アントワネットに指一本も触れることはなかった。

二人が結ばれたのは結婚から7年後。

その間、マリー・アントワネットは女性としてどんな気持ちだったのでしょう?

 

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マリー・アントワネット王妃の寝室

王妃が一日の大半を過ごし、人々の訪問を受けた王妃の寝室

フランス革命によって宮殿を去る1789年10月6日までここで暮らしていた。

天井の四隅には古郷ハプスベルク家の紋章である双頭の鷲のレリーフ。

フランス語に不住した王妃は嫁いだ後、10年以上もホームシックにかかったいたという。

結婚から7年後、王妃は待望の第一子を出産。

子供のすり替えを防ぐ為、出産はなんと公開するのが王室のしきたり。

50人もも人が見学したといいます。

出産以外も宮殿には多くの貴族が出入りし、食事中も人の目にされされてた王家の生活。

しかし、王妃には息抜きするときの秘密の場所があったのです。

マリー・アントワネット王妃の寝室の隠し部屋

王妃の寝室には特別な仕掛けがあるのです。

なんと、寝室の壁に隠し扉が・・・・

通路の先には王妃の為の隠し部屋があった。

ここは、昼寝の間と呼ばれるマリー・アントワネットのプライベート空間。

公の寝室とはがらりと雰囲気の違うつつましやかな部屋だ。

彼女は、ここに親しい友人を呼んで自由な時間を過ごしたり、

時には、その部屋からこっそり抜け出してパリで夜遊びをしていました。

なんと、隠し部屋だけでなく外に抜け出す通路も存在したのだ。

マリー・アントワネットの隠れ家

更に後年、マリー・アントワネットは隠家も持っていたのです。

宮殿からおよそ2km離れた王妃の離宮プチトリアノン。

先代のルイ15世が、愛人の為に建てた離宮である。

王妃はおよそ20憶円をかけて改装。

マリー・アントワネットが求めたのは安らぎ。

王妃の寝室には、彼女のセンスが表現されている。

多くの家具にあしらわれているのは、彼女が好んだバラやすみれ。

寝室の先にもう一部屋、「控えの間」と呼ばれる部屋がある

壁に掛けられた鏡は壁ごと上下する仕掛け。

外から見られない様、窓を塞ぐのが目的だった。

マリー・アントワネットは、ここでは王妃としての生活ではなく

一人の女性として暮らしていたという。

夫のルイ16世ですら無断で立ち入ることは出来なかったのだ。

限られた中の良い友人しか呼ばず楽しい時間を過ごしたという。

マリー・アントワネットを取り巻く友人たち、中には革命時に命を顧みず王妃を助けようとするほどの信仰者までいた。

 

マリー・アントワネットの秘め事

 

実はマリー・アントワネットはこのプチトリアノンで秘め事があったのです。

外の庭には大事な人と密かに会う事が出来る特別な場所がいくつかありました。

プチトリアノンには、人目につかない様なところが幾つもあった。

その相手とは、スウェーデンの貴族 ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン伯爵

マリー・アントワネットとフェルゼンはパリの仮面舞踏会で逢いました。

夫との不仲、窮屈な宮殿生活。

そんな時に現れたフェルゼンは、ドイツ語を話せる事もあってかマリー・アントワネットは心を許し二人は恋に落ちていったのです。

こうした場所を巧みに利用しマリー・アントワネットは、愛人フェルゼンとの逢瀬を重ね道ならぬ恋に落ちていったのだ。

この彼こそ、後に捕らわれのマリー・アントワネットを救出しようと奔走した男!

マリー・アントワネットの贅沢

マリー・アントワネットはとにかくオシャレが大好きでドレスを何枚も買い込んだり、

奇抜な髪形をしてたりして当時のファッションリーダーとなっていたのです。

赤字婦人と呼ばれる彼女は、年間170着のドレスを新調。

年間の衣装代は現在の価格にして20憶円に及んだという。

こうした自由奔放な生活をしていたマリー・アントワネット。

一方、宮殿ではフランスの王妃として贅沢三昧な生活も送る。

そんなマリー・アントワネットの噂話に

当時、敗戦続きで生活に困窮していた国民は不満を募らせていきます。

首飾り事件

現在の価値で200憶円もする首飾りを、あたかも王妃が購入する様に偽装した詐欺事件である。

犯行グループの一人がマリー・アントワネットに成りすましたのだ。

当時、王妃の顔はを知る人は限られていた為、こういった身代わりを立てる事は容易であった。

フランス革命

1789年バスティーユ襲撃

遂に、市民の不満が爆発!

フランス革命 勃発!

不満を募らせた民衆の怒りは、国王一族と、マリー・アントワネットに向けられました。

パリでの暴動は、直ぐにベルサイユにも伝えられた。

興起した市民がここまでやって来ると。

そして、出回った処刑リストには、ルイ16世とマリー・アントワネットの名前があった。

そして。。。

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マリー・アントワネット公開処刑

1793年10月16日

マリー・アントワネットは処刑

そこはコンコルド広場、当時は革命広場と呼ばれていた。

広場に立つオベリスクのたもとに彼女の名前が刻まれている。

【マリー・アントワネット・公開処刑】

歴史荒波に翻弄され罪に問われ遂に処刑をされてしまったマリー・アントワネット。

ここコンコルド広場で、断頭台の露と散ったと言われています。

マリー・アントワネット封印された死の謎

その謎を解く鍵がセーヌ河岸(世界遺産)に数々残されていた。

市民の憩いの場となっている世界遺産チュイルリー庭園。

ここには且つてチュイルリー宮殿がありました。

ベルサイユ宮殿を追われたマリー・アントワネットが永らく幽閉されていた場所です。

チュイルリー宮殿での生活はみじめなもの、窓からは隙間風が吹き付けネズミが走り回っていたという。

実はマリー・アントワネットは、ここに幽閉されている時幾度となく国外脱出計画を立てていた。

計画を練ったのは、あの愛人フェルゼンでした。

パリで幽閉されていた時も、ひそかにフェルゼンと繋がっていたのだ。

 

ヴァレンヌ逃亡事件

実際、リー・アントワネットはフェルゼンの導きにより国外に脱出を図っています。

しかし、この計画は失敗に終わり、再び捕らわれパリに引き戻されています。

それ程、生きる事に執着したマリー・アントワネットがその後何もせずに処刑されたと考えるのは不自然です。

 

マリー・アントワネットが最後に収監された世界遺産コンシュルジュリー

6世紀に宮殿として建てられたが、フランス革命後、裁判所となりその一部は重犯罪者を収容する牢獄として使われた。

当時、ここは死の牢獄、ギロチン控えの間と呼ばれていた。

マリー・アントワネットは、ここで最後の76日間を過ごした。

マリー・アントワネットが収監されていたのは、入り口から最も奥まった角部屋でした。

実は、マリー・アントワネットは、ここでも脱獄しようとした形跡があるのです。

彼女を助け出したいという支援者がいて面会に訪れ計画を持ち掛けていたのです。

 

用意周到な脱獄計画

フェルゼンはマリー・アントワネットの国外逃亡を計画し裏で糸を引いていたのです。

マリー・アントワネットからフェルゼンに宛てた1791年6月29日の手紙。

その手紙は、すべて暗号で書かれていたのだ。

なんと二人は、内容を人に知られないようにアルファベット乱雑に並べた暗号を駆使して手紙をやり取りしていたのだ。

二人が交わしたこの暗号文は当時でもかなり高度で難解なものでした。

これ程の手をかけた手紙の内容とは・・・

「貴方が私たちの逃亡を手引きして下さったことに感謝しています」

マリー・アントワネットは、フェルゼンへの暗号手紙に他の国の権力者や

オーストリアにいる家族も助けを求めたいと書いていました。

 

マリー・アントワネットのDNA鑑定

そして、マリー・アントワネットの処刑から200年後

衝撃のニュースが世界を駆け巡った。

マリー・アントワネットの息子ルイ17世の遺体が本物かどうかを確かめる為DNA鑑定が行われたのだ。

鑑定に使われたのは、ルイ17世の心臓。

そして、マリー・アントワネットや親族たちの髪の毛。

鑑定サンプルは9人分

精度の高い母系解析による方法が用いられた。

この鑑定では、血縁関係が分かる特定の遺伝子9つを比較した。

親子であれば完全に一致するものだ。

ルイ17世と母の子孫たちの遺伝子は完全に一致。

だが・・・母マリー・アントワネットだけが一致しないのだ!

この驚きの事実は一体何を意味するのでしょう?

どこかのタイミングで誰かと入れ替わっていたとしたら・・・

そして・・もし逃げ延びていたとしたら・・・

処刑されたのは別人?

処刑前に描かれたマリー・アントワネットの肖像画

宮殿にいたころとはまるで別人!

果たして、これはマリー・アントワネット本人なのだろうか?

マリー・アントワネットろ良く知る人物が描いた文献にはこんな記述が・・・

ジャンソン侯爵夫人は許可を得てコンシェルジュリーに入った。彼女は変装による脱獄計画を王妃に持ち掛ける。

自分が身代わりとなって独房に残ると申し出る。

ジャンソン侯爵夫人は、マリー・アントワネットと若い頃から親しかった人物。

王妃を救いたい一心で看守を買収し、自分が身代わりとなりマリー・アントワネットを逃がそうとしたのだ。

二人は背格好が似ていた為、変装すれば到底誰にも気づかれる事はなかったのだ。

更に、マリー・アントワネットの死から8年後に書かれた本の中には、コンシェルジュリーの警備についての記述がありました。

明らかに言えることは王妃を脱獄させ、安全な場所に移すことは難しい事ではなかった。

ここの甘い警備は人の出入りを禁じてもいなかった。

多くの人の協力、そして看守が味方に付いていた為、脱獄はけして難しい事ではなかったのです。

マリー・アントワネットの逃亡

マリー・アントワネットは、逃亡用のカバンを用意していた。

実は、同じカバンが何故か2つ存在しているのだ。

その1つルーブル美術館に所蔵されている逃亡用カバンは以前、イタリアにあったことが分かっている。

説1・イタリア逃亡説

イタリアには、姉マリア・カロリーナが嫁いだナポリ公国がある。

マリー・アントワネットは、彼女に救いを求めたのだろうか?

説2・オーストリア逃亡説

母、マリア・テルジアは末娘のマリー・アントワネットを溺愛していた。

フェルゼンへ送った暗号文には、家族に救いを求めていた。

説3・ロシア

ロシアの女帝エカテリーナ2世とはベルサイユにいた頃から親交があった。

処刑の1年前マリー・アントワネットは、なにかあった時には助けてほしいと手紙を送っている。

説4・スウェーデン

そのありかは、ストックホルム郊外にあるステーニンゲ城。

なんと主は、あの愛人フェルゼン。

フランス革命後パリから戻ったフェルゼンが暮らしていたステーニンゲ城。

そこにあったのは、マリー・アントワネットが愛用していた朝食用のテーブル

何度も逃亡計画を練っていた2人。

マリー・アントワネットは、生き延びてここでフェルゼンと暮らしたのだろうか。事実は今だ謎である!

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