モナリザの人物が判明!ダ・ヴィンチがモナリザに執着した理由の謎に迫る!

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ダ・ヴィンチに伝えられた思わぬ知らせ・・・

それは、ミケランジェロがバチカンで最も重要なシスティーナ礼拝堂の、天井画を書き始めたと言う知らせだった。

それは、ダヴィンチが誰にも負けないと自負する絵画において、ミケランジェロがナンバー1の称号を得たという事と同じだった。

ダヴィンチのショックは図りしれないものだった!

ダヴィンチは失意の底に沈んだ!

そんなダヴィンチのもとに1件の絵の依頼が舞い込む。

それは、栄光ある建物の巨大な天井がでも壁画でもない!

ある人物一人の肖像画の依頼であった。

墨板に油絵の具でダ・ヴィンチが描き始めた、その絵こそがあの「モナリザ」だった。

モナリザのモデルの正体の謎!

ダ・ヴィンチは、モナリザの中に何を求めたのだろうか?

その中で、世界中の人々が最も関心を寄せる謎!

それは・・・

モナリザのモデルは誰か?という謎である。

この謎については500年に渡り様々な人物の名がとりただされてきた。

その人物は、イタリア一の才嬢と言われたイザベラ・デステ

フランス艦隊を撃退した女傑として知られるコンスタンザ・タヴァロス

そして最も有力な人物は、フランチェスコ・デルジョコンダの妻、リザ・ジョコンダ

通称ジョコンダ夫人である。

果たしてモナリザのモデルとは・・・一体誰なのか?

その謎を解く文書がミラノ国立資料館の保管庫にあった。

その文章とはダヴィンチと一緒に暮らした愛人のジャフモ・カブロッティ

愛人サライの遺言検認文書

実はサライは、1525年にミラノで殺されているが、その所有物を確認するものとして、この文書が保管されていたのだ。

その文書に記された1枚のタイトルに注目すると・・・・

その絵のタイトルは、ラ・ジョコンダ

ダヴィンチの遺品を相続したサライの所有物に、そのタイトルの絵があった事からジョコンダ夫人がモナリザのモデルであったことがほぼ確認された。

当時の資料によれば、彼女の正式な名はエリザべッタ・アントンマリア・ディ・ノルト・ゲラティー二

彼女が、ジョコンダ夫人と呼ばれるのは商人であったフランチェスコ・デルジョコンダに嫁いだからである。

ダ・ヴィンチがモナリザを描き始めるのは1504年頃。

当時のジョコンダ夫人は25歳。

年齢的にもどうやら間違いない。

しかも当時の記録から、驚くべき事が分かったのである。

当時、ジョコンダ夫人には子供がいました。

でも、生まれて間もなくその子は病死してしまったのです。

モナリザが、黒い服を着ていたのはジョコンダ夫人は幼い子供を失い、喪に服していたからであった。

更に、ジョコンダ夫人はそのころ妊娠していた事が分かった。

モナリザの絵を注意深く見ると、彼女は20代の若い女性なのに指が膨張しているのが分かります。

そして、彼女の手がそっとお腹の上に置かれている事

これは、妊娠後期の女性に見られる特徴です。

兼ねてから下腹を構う様なポーズからモナリザは妊婦ではないかと言われていた事まで遂に明らかになったのだ。

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モナリザの中に描かれた二つの顔

それは、幼い子供を失った悲しみ・・・

新たな生命を宿した喜び・・・・

その狭間で微妙に揺れ動く1人の母親

ジョコンダ夫人をモデルに描かれたと考えると・・・

今!2つの顔の秘密までもが氷解する

モナリザに込めたダ・ヴィンチのメッセージ

1513年 61歳になったダヴィンチは、描きかけのモナリザを携えローマに飛び去った。

当時のローマ教皇ジュリアーニの招きを受けたのである。

ローマでダ・ヴィンチが最初に訪れた場所は、バチカンのシスティーナ礼拝堂であった。

その天井には、すでにミケランジェロ天地創造が完成していた。

天地創造から、ノアの洪水、人類の再生に至る壮大な創成期の物語である。

それを見たダ・ヴィンチは、こうつぶやいた・・・

・・・何故、若者も老人も同じような筋肉で描かれているのだ・・・・」と

それは、ダ・ヴィンチが絵画に求めていた物とは明らかに違った。

こうして始まったダヴィンチのローマ滞在。

だが、ダ・ヴィンチの存在を快く思わぬ人物がいた・・・

ローマ教皇レオ10世である。

ダヴィンチは、ローマに来てからも死体の解剖を続けた。

そのことが、教皇の疑いを一層強める。

そんな中で尚、ダ・ヴィンチは解剖をやめなかった。

驚いた事にダ・ヴィンチは、20世紀になって発見される動脈硬化の原因を解明していたのだ。

その科学的知識は、まぎれもなく現代に通じるものだった。

だが、そんなダ・ヴィンチにまたしても不幸な運命が訪れる。

深夜ダ・ヴィンチが行う死体の解剖、まるで暗号の様な鏡文字で綴られた膨大な量のメモ。

その全てが、悪魔の諸行とみなされていたのだ。

教皇は・・・

「お前は、魔術と呪術の疑いで告発されている。そして死者と夜を共に過ごしている・・・バチカンを交霊術の場に使うのは許せない、レオナルド・ダ・ヴィンチお前はその邪悪な行為を続けてはならないバチカンを汚してはならない。神の名に懸けて・・・」

ダ・ヴィンチの解剖学の研究は、彼の他の科学的仕事と同様結局日の目を見る事はなかった。

世の中に知られる事なく、そして歴史上にも功績を残す事はなかった。

この頃、ダ・ヴィンチは・・・

教えてくれ・・・私は何か価値のあることを残したのだろうか?何かが成されたのであれば教えてくれ・・・

傷心のダ・ヴィンチは、ローマを去りフランスへと向かう決意をした。(1516年)

それは、モナリザも一緒の旅であった。

描き始めてから実に14年。

ダ・ヴィンチは、モナリザだけは自分の手元から離す事無く筆を入れ続けていたのである。

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ダ・ヴィンチは何故モナリザに執着したのか

ダ・ヴィンチがモナリザに執着した理由・・・

それは、なんだったのだろう?

モナリザは、ダ・ヴィンチ自身のもの!

ダ・ヴィンチは絵の中に何を込めようとしたのか?

その謎を解く鍵は、ダ・ヴィンチの絵画理論を編集した「絵画論」の中に記されていた。

良い画家は二つのものを引き出さねばならない

自分が描いている対象の物理的見かけと

その心の中にあるもの・・・精神だ!

モナリザの精神とは?

偉大な心理学者ジグムント・フロイド

彼は、こう語っている・・・

この微笑む女性像はダ・ヴィンチの母親カテリーナに他ならない。

幼い頃その微笑みを失ったダ・ヴィンチはフィレンツェの女性に再びそれを発見したのだ。

幼い頃から母の愛を知らずに育ったダヴィンチ。

彼は、常に満たされなかった母の愛を求め

ジェコンダ夫人の微笑みに満たされなかったその母性を感じ、永遠の女性モナリザを描いた。

フロイドは、そう結論づけたのである。

モナリザの微笑み・・・・

それは、ダ・ヴィンチが生涯求め続けた母の愛だったのだ。

身分の違いから幼くして産みの母カテリーナと別れなければならなかったダ・ヴィンチ。

ダ・ヴィンチは生涯彼が求め続けた母の面影を、あらゆる技巧を駆使しモナリザの中に描き込んだのではないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

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