バイオハザード!アメリカの生物兵器の謎に迫る!

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1969年11月ニクソン大統領は宣言しました。

「アメリカ合衆国は、人類を死に至らしめ再起不能とする生物兵器の一切の使用を放棄します」

この宣言は高く評価されましたが、病原菌による大量殺害の研究は25年以上の間公表されていませんでした。

悲惨な世界大戦のさなかに発足した、アメリカの生物兵器計画は秘密に覆われていました。

世界大戦さなかの1942年12月9日アメリカ政府は、ワシントンDCの米国科学アカデミーで極秘の会議を行いました。

そこで、科学者達に緊急な話がありました。

ドイツが恐ろしい新兵器でイギリスを攻撃するというのです。

バイオハザード計画

病原体の入った爆弾です。

危機を感じたイギリスが会議を要請しました。

アメリカは同盟国を救うため一夜にして対策を建てねばなりません。

微生物学や感染症の知識を出来るだけかき集め軍事目的に利用するとしたら、

とても強力な兵器を開発することが出来ます。

これは、極めて危険な行動です。

戦争そのものを変える事になります。

フランクリン・ルーズベルト大統領は、会議の数か月前に例えて敵国でも、

この様な非人道的な兵器を導入する国が存在するとは思いたくありません。と語っています。

大統領に対し陸軍長官のスティムソンは汚い手段でも準備は必要ですと書いています。

大統領は、アメリカの生物兵器計画を初認しました。

研究者達は、科学的に最も有害な病原菌で兵器を作り始めました。

後のない同盟国からの要求でアメリカは倫理的制限のない領域に突入しようとしていました。

計画に係わった科学者達は、このことを漏らせば40年の投獄と10000ドルの罰金に処すると警告されます。

ドイツ軍のイギリス爆撃は2年半続いています。

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イギリスの炭疽菌生物兵器の実験

イギリスは生物兵器の攻撃を恐れていました。

1942年7月イギリスはスコットランドのグリニアード島で生物実験を開始します。

ここが選ばれたのは遠く離れているからです。

人目につかず周辺人口が少ないのが決め手でした。

イギリス軍は病原菌をまき散らす兵器を完成させました。

研究所には致命的な病原体が大量にあります。

彼らは、恐ろしい病気を引き起こす炭疽菌をテストします。

細菌学者の指示の元、研究者達は炭疽菌が島のどこまで広がるかを考え、

実験台となる羊の群れを配置しました。

炭疽菌爆弾を柱につるします。

炭疽菌は数分間にわたり羊の上を通過しました。

数日後、羊は震えだしてふらつき体内から血がにじみ出ると直ぐに死亡しました。

実験は、対人生物兵器の開発が可能である事を証明し、強力な兵器の存在を同盟国に確信させたのです。

実験は成功しましたが、資源が不足しています。

アメリカの助けが必要でした。

アメリカを生物兵器の研究に加えればイギリスは施設、資源、資金の心配をせずに進むのです。

アメリカの科学兵器の始まり

陸軍科学戦争部の指揮の元アメリカの生物兵器研究が始まります。

国一番の科学者達は献身的に働きました。

資金は無制限。必要な設備は全て揃えて職場環境の要望も叶えました。

誰もが飛びつく条件です。

ただし、何より早く結果を出す事が重要でした。

生物兵器計画はイギリス同様極秘に行われました。

この計画は極秘中の極秘で演習場での実験を4,5人しか知らない事もありました。

政府の人間でさえ知らなかったのです。

悲惨な結果は目に見えていました。

生物兵器計画に携わった人々は愛国心からだと自分たちに言い聞かせました。

研究を続け無ければ国は滅びてしまうかもしれません。

彼らは閉ざされた空間で規則正しく生活し研究を続けました。

イギリスは2つの要求を出しました。

1つは炭疽菌。そしてもう1つは最も致命的といわれるボツリヌス菌から作る毒です。

ボツリヌス菌の毒に侵されると麻痺状態となります。

医師には体内を進行するのが見えるそうです。

麻痺が胸の中心部に達すると呼吸が停止して心臓麻痺を起こし蘇生は不可能となります。

研究は24時間体制で行われました。

毒はネズミに試されますが人間にどのような効果があるかは分かりません。

1ミリℓで100万匹を殺します。

人間を殺すのにどれ位の毒が必要かは言えませんが毒性が非常に強い事は確かです。

猛毒です。

生物兵器の使用は何十年もの間、議論されてきました。

第1次世界大戦ではドイツが戦争規範を大きく逸脱し塩素ガスを使用しました。

現代科学の進歩で人類の生活は豊かになりました。

しかし、第1次世界大戦では科学技術が目的に反し軍事目的に悪用されたのです。

1925年ジュネーブで非通常兵器の戦争使用を禁止する議定書に約30か国が署名します。

署名はしたものの、アメリカは生物兵器の研究と生産を認める議定書の基準を拒否します。

1930年代後半、ヨーロッパで緊張が高まると大量破壊兵器の生産を阻むものはありませんでした。

1944年ドイツのV1ロケットがロンドンを襲いました。

ナチスの私物兵器攻撃を恐れたイギリスの首相ウィンストン・チャーチルはアメリカに50万個の炭疽菌小型爆弾を緊急注文します。

チャーチルから完成次第連絡が欲しいと伝えられますが、デトリックだけでは対応出来ませんでした。

1944年12月 日本軍が北アメリカを攻撃しました。

西の空に投下されたパラシュートは細菌爆弾の疑いがあると報告された為、デトリックの科学者が落下現場の1つに派遣されました。

投下されたのは爆発物のみででしたが、この事件によりアメリカの生物兵器はさらに前進します。

1945年8月までにアメリカの生物兵器計画には6000万ドルがつぎ込まれ病原体の威力を試す為に50万頭以上の動物が犠牲になりました。

広島と、長崎の後、生物兵器は影の存在となりました。

核兵器の威力を前にしてこれまで生物兵器に抱いていた期待が薄れてしまったのです。

核兵器が優位となり3年間を費やしたアメリカの生物兵器計画は消滅するかに見えました。

しかし、予期せぬ事が起こります。

戦争が終結して間もない頃、アメリカは同盟国だった当時のソ連が生物兵器の研究を行っているとの未確認情報を入手します。

そして、アメリカも研究を続ける事になります。

アメリカの研究が第2次世界大戦で始まったのはドイツと日本の生物兵器計画研究が報告されたためです。

アメリカは敗戦国の細菌技術の程度を知る為、調査団を派遣します。

アンリかは、ドイツがヒトラーの指令で生物兵器計画を行ていた物と思っていました。

実際には、戦争初期の段階でヒトラーが生物兵器の研究は避けよう命令していた為研究は進んでいませんでした。

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日本の人体実験による生物兵器の実験

しかし、日本の細菌研究は予想を上回るものでした。

一人の軍医中将の名が何度も浮かびあがります。

情報提供者の中には彼を細菌男と呼ぶものや、細菌の為に働き続けた男などという者もいました。

男の名は・・・・イシイ・シロウ

日本の生物兵器開発の第一人者です。

1947年5月デトリックの調査委員がイシイを尋問した結果驚く事が分かります。

研究者達は日本の無制限な生物兵器計画を知ります。

本部は日本支配下にあった中国の731部隊3千人の職員が住み実験室、神社、映画館、売春宿を備えていました。

イシイは、実験台となる人間を簡単に、そして大量に集めました。

彼らは主に中国人の農民でした。

家から連れ出したり、通りすがりに捕まえたりする事もありました。

そして捕虜にすると残虐な実験を行いました。

ナチスの強制収容所を変わりません。

実験台となった人間は必ず死にます。

病気が回復しても殺され、調査の為検視解剖に回されるのです。

生物兵器の組織が新鮮に保たれる様、患者が死ぬ前に解剖を行う事もありました。

人体実験で殺害された人は最低3000人はいるでしょう。

10000人に及ぶかもしれません。

イシイ達は捕虜をペスト、コレラ、赤痢、腸チフスに感染させましたが、ものたりません。

彼らは、炭疽菌で人体実験を行いました。

アメリカやイギリスの科学者たちが理論上は思いついたとしても倫理的には考えなかった菌です。

炭疽菌の胞子を肺に吸い込むと肺炭疽にかかります。

致死率の高い病気です。

肺に水がたまり皮膚は青く変色します。

胸部のリンパ節はテニスボール大に腫れる事もあり破裂する恐れもあります。

苦痛を伴う恐ろしい死が待っています。

日本の実験は、中国の町の中でも行われます。

イシイは開発した兵器の1つにペスト菌を感染させたノミがあります。

ノミは飛行機で町の上空から投下されました。

多くの中国人が日本軍の放った菌でペストなどに感染しました。

アメリカの調査委員は限度を超えた実験内容に驚きます。

調査員は日本の研究について知れば知るほど興味を持ちました。

日本の研究はアメリカの研究を遥かに超越していたのです。

日本は、一線を越えたのです。

アメリカの実験は全て動物で行われましたが、日本は生物兵器が人を殺す威力があると証明しました。

イシイは解剖の略図や人組織が入ったプレパラートなどを含む細かい記録をつけていました。

人体実験のデータと引き換えにイシイは自分と同僚の戦犯免責を要求します。

彼の処分は、戦後日本連合軍最高司令官マッカーサーに元帥に委ねられました。

1948年3月、マッカーサーはイシイとの取引を許可します。

東京裁判の生物兵器に関する訴追は皆無でした。

日本の研究員たちは裁かれるべきでした。

裁判が行われていれば免責を認めない慣例が出来たでしょう。

訴追の免責は、アメリカにとって日本の人体実験データの確保や、ソ連の研究に拍車をかける証言を抑えられる以外にも収穫がありました。

取引のおかげでアメリカの計画は急速に進みました。

太平洋での実験が進む中、すべての非通常兵器に対し否定的なみかたが強まる事件が発覚します。

アメリカが初めてベトナムで使用した科学兵器です。

アメリカは、実験済みの枯葉剤も使用していました。

抗議行動が始まります。

1969年2月ダクウィエ試験場の事故が報道されました。

誤って放出した神経ガスで羊が6000頭死んだというのです。

軍は最終的にそこで神経ガスの実験を行っていたことを認めました。

評論家は、この事件を境に非通常兵器はコントロール不可能との議論を激化させ研究者達は情報は秘密にすべきとの意見を強めました。

生物兵器は、市民の目には耐えられないのです。

ニクソン大統領は、政治的圧力の高まりを感じていました。

 

1969年11月25日 ニクソンが宣言します

生物兵器はよく細菌兵器とも呼ばれます。予測不可能で不安定な要素が沢山あります。

伝染病が世界に蔓延し未来の子供たちの健康を大いに害する恐れがあります。

それが故に私は、決断しました。アメリカ合衆国は人類を死に至らしめ、再起不能とする生物兵器の一切の使用を放棄します。

人類はすでに有り余る問題を抱えているのです

アメリカは、水面下で30年以上続いた生物破壊兵器の計画を抹消したのです。

 

 

 

 

 

 

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