日本三大ミステリー「三鷹事件」無人電車暴走事件の謎に迫る!

スポンサーリンク




無人電車が突然暴走して六人が死亡、十数人人が負傷者するという大事件が起こりました。
「三鷹事件」と呼ばれるこの事件、下山事件、松川事件の2つの事件と合わせて旧国鉄をめぐる、戦後昭和史の三大ミステリーと言われています。
でこの3つの事件の中で、三鷹事件はこれまであまり取り上げられていない。
今、一人の弁護士が改めてこの事件に光を当てその大きな謎に迫ろうとしています!

東京JR三鷹駅

1949年、日本がまだGHQの占領下にあった時代。
ここで無人霊車が暴走した。
今、この怪事件を謎を解き明かそうとしている弁護士がいる。

日本三大ミステリー「三鷹事件」

事件は、1949年7月15日の午後9時20分ごろ起きた。

1番線に停まっていた無人電車が突如を動き出し、そのまま暴走!

600メートルほど走ったところで脱線し、ホームを乗り越えて民家に突っ込んだ。

この事故で6人が死亡、十数人が重軽傷を負った。

現場にいた堀越さんが、まだ息のある生存者を救い出そうとした時、駆けつけたアメリカ兵がそれを制止した。

占領軍は事故直後、日本警察の取り調べを許さなかったのだ。

この三鷹事件は、GHQの主導で当時の吉田内閣が国鉄職員らを大量解雇する方針を打ち出した直後に起きた。

同じ歳に相次いだ「下山事件

下山事件の記事はこちら

松川事件」とともに国鉄を舞台にした、戦後の三大ミステリーとされる

高見沢弁護士が挑んだ検証

それは、まったくのでっちあげ事件

事件で、共産党員である組合関係者が大量人逮捕され、労働運動は大きな打撃を受けた。

その後の共産党員の排斥(レッドパージ)につながったと教科書にも取り上げられる大事件だ。

この三鷹事件で逮捕されたのも、国鉄の組合関係者ら10人だった。

うち唯一、共産党員でなかった竹内景助被告だけが有罪となり死刑判決を受ける。

11年後、竹内死刑囚は無罪を訴えたまま獄死。

三鷹事件の真相は闇に葬られた。

高見沢弁護士は、三鷹に引っ越したのを機に、この事件の広大な公判記録が今なお保存されていることを知った。

そして半年かけて記録に目を通し、事件について調べ挙げた。

三鷹事件の公判記録は、現在も東京地検の資料室でん眠っている。

決して外には持ち出されることのないこの記録をなぜ弁護士が入手できたのか?

40年以上も前に、東京地検の資料室でこの公判記録を写真に収めた学者がいたのだ。

JRの元運転士で、三鷹事件の記録の保存活動を行っている落合さんは、この崩し字で書かれた記録を3年半かけて解読。

高見沢弁護士に託した。

高見沢弁護士は、公判記録と資料を見て竹内死刑囚の無実を確信したと言う。

スポンサーリンク




彼が指摘する検察側の立証の矛盾点はこうだ・・・

疑問1.不自然な供述

無人の電車を動かすためには、コントローラーの鍵を開け、最大速度になるまでハンドルを左に回す必要があった。

検察側は、この鍵を開けるのに当初は運転台の下に落ちていた釘を使ったと考えていた。

ところが取り調べの過程でこの釘が突如、針金に変わり、こんなやりとりがあったという!

(検事)運転台の中に釘が1本落ちていたが、あれで行ったんじゃないのかな

(竹内容疑者)まさか!釘では動かないでしょう!

(検事)釘じゃあダメなら何か鍵の形したものだね。針金なら出来るだろうねぇ曲がったので

それ以降なぜか犯行に使われたのは、針金だということになる。

検察側は、駅に落ちていたという200本以上の針金を集め、このようなもので鍵を開けたと主張したのだ。

しかし、裁判では検察側が集めた針金で、本当に鍵が開くのかどうか検証された形跡は全くない!

さらに、コントローラーのハンドルは、抑えていないと強いバネの力で元に戻ってしまう。

検察側は、ハンドルが戻らないよう、紙紐で固定したのだと主張する。

竹内死刑囚は、左手でハンドルを抑えたまま右手だけで紐を結んだと供述し、これがそのまま判決分にも引用された。

しかし、両手を使わなければ紐を結ぶことは不可能なのだ!

つまり、右手だけで紐を結んだとする供述は不自然で、信憑性に乏しいと高見沢弁護士は言う。

しかも、犯行に使われたとする紙紐の端にあった特殊な結び方。「コイル巻き

竹内死刑囚は供述で一貫して、こんな結び方は自分はできないと話している。

しかし、これら不自然な供述は一度も検証されることなく証拠として採用された。

疑問2.アリバイ

高見沢弁護士が最も問題視するのは、竹内死刑囚が供述していたアリバイだ!

竹内死刑囚は、逮捕された直後の取り調べで事件当時、国鉄職員専用の風呂場にいたと訴えている。

「伝統が消えて真っ暗になりました。
暗い中を浴場に入ったのですが、運転手丸山に会いました。
竹内君もクビ切られたんだってねと!
私の知った人は、丸山とを小倉君です」

風呂場が暗かったのは、事故により起こった停電のためだった。

彼の証言が事実だとすれば、事故当時は風呂場にいたことになる。

ところが、名前が上がった2人はなぜか事情聴取すら受けていない。

死刑判決が確定した後、竹内死刑囚は獄中で自らの無罪を立証する証拠を集め続けた。

その1つが、自分が風呂場で出会った2人の証言だった。

供述書の中身はこうだ・・・・

まずは丸山氏

風呂に入ってしばらくして停電があって、竹内君と就職口を見つけてくれとか話をしました。

さらに小倉氏

すぐ停電になり、竹内景助くんと一緒に組合のことや就職の点についても語りあっておりました。

ところが、これほど明確なアリバイがありながら不自然な供述を基に死刑判決が下された!

その背後に何があったのか?

竹打死刑囚は事件の直前、解雇されていた。

5人の子供を養うため、朝は納豆、昼はアイスキャンデーを売り生計を立てていたが、その最中に突然逮捕された。

彼は逮捕されて20日間、一貫して犯行を否認していた。

密室の取り調べで何が行われたのか?

当時の過酷な取り調べを実際に経験した人物がいた。

三鷹事件で、逮捕され6年を無罪判決を勝ち取った清水隆さんだ。

清水さんは、長時間の取り調べは精神的な拷問に近かったと振り返る。

清水さんは取り調べの最中、自分自身の判断力さえ信じられない状態に陥ったという。

竹内死刑囚も逮捕から20日目、検事から「仲間が”お前とやった”と自白した」と言われ、遂に犯行への関与を認めた。

そしてその後、単独で行ったと供述は変遷する。

供述を変えた理由について、再審請求を担当した弁護士はのちにこう語っていたという。

「自分が単独犯でね、やったことで自分が犯人にすることによって、
まったく関係ない他の共産党員の人たちが助かると」

共産党員でない自分1人の犯行にすれば、仲間を救えると考えていたと言うのだ。

実際に、三鷹事件の10日前に起きた下山事件。

そして1ヶ月後の松川事件。

この3つの事件が、当時の労働運動に及ぼした影響は甚大だった。

逮捕された9人の共産党員は、清水さんを含め全員6年後に無罪判決を確定を得たが、その間政府は国鉄職員の大量解雇を進め労働運動は勢いを失った。

竹内死刑囚が無罪を訴え、再審請求をしてから10年。

東京高裁がようやく再審請求の訴えを聞き入れ、竹内死刑囚から意見を聞きたいと打診したときのことだった。

再審請求の願いもむなしく1967年1月、竹内死刑囚は東京拘置所で死亡した。

死因は脳腫瘍。

妻との面会で最後に漏らした言葉は、「悔しいよ」だったという。

三鷹駅から20分

禅林寺にある慰霊碑に、命を奪われた6人の犠牲者の名が刻まれている。

多くの謎に包まれた三鷹事件

高見沢弁護士は、今回の検証作業を通して何らかの形で竹内死刑囚の名誉回復につなげたいと考えている。

スポンサーリンク