戦後最大のミステリー「下山事件」の謎に迫る!

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国鉄初代総裁、下山定則が出勤途中に行方不明となり、翌日遺体となって発見される。

いわゆる「下山事件」

戦後最大のミステリー「下山事件」

多くの謎を残し事実上迷宮入りとなった戦後最大のミステリー。

戦後の動乱が明けきらぬ、1949年GHQ連合国軍総司令部の占領下にあった日本。

7月5日の朝、大田区の自宅を出た初代国鉄総裁、下山貞則は国鉄本庁へは向かわず、運転手に日本橋の三越本店に行くよう命じた。

その後、三菱銀行本店に立ち寄った後、再度三越本店へと向かい午前9時37分頃、店内に入っていったまま消息を絶つ。

翌6日未明、国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の中間地点で、最終の下り電車の運転士が線路上に人間の死体らしき肉塊が散乱しているのを発見。

後にこれが、前日に失踪した下山総裁の死体であることが確認された。

当時、下山総裁は国鉄合理化に伴う、10万人規模の人員整理の渦中にあり、その責任者として労働組合との団体交渉の矢面に立っていた。

そうしたなかでの下山総裁の死はさまざまな憶測を呼んだ。

・人員整理を苦にした自殺だったのか?

・人員整理反対する労働左派による暗殺だったのか?

・GHQと右翼組織という日米の反響勢力による謀殺だったのか?

これらの憶測は報道や与論のみならず警察内部でも捜査一課は「自殺説」捜査二課は「他殺説」と二分し一大論争にまで発展。

当初浮上した自殺説に対して、解剖を行った東京大学の法医が遺体の礫断面に生活反応が認められなかったため、死後轢断である可能性を示唆し、下山総裁は別の場所で殺された後、線路に運ばれ轢断させたとする他殺説を主張。

結局捜査本部は、捜査結果を公表することなく解散。

迷宮入りとなった。

いずれにせよ、この事件がきっかけとなり国鉄では一気に人員整理が加速。

その他の企業においても人員整理が成功し、GHQの思惑通りになっていた為、今だ事件にGHQが関与をしていたのでは?とする見方も強い。

また、これまでに出版された下山事件関連の書籍では、アメリカ軍のCIC、キャノン少佐率いるキャノン機関、そして亜細亜産業が事件に関わったのではないかと疑われている。

事件発生から42年経った1991年の夏

柴田哲考は、祖父豊の23回忌に祖父の妹から衝撃の事実を告げられる。

あの事件をやったのは・・・もしかしたら兄さんかもしれない!

その日から、柴田の戦いの日々が始まった。

それは自分の一族が関わった、想像を絶する戦後日本の闇との戦いだった。

そして2005年7月、柴田哲孝は「下山事件最後の証言」を発表。

キーパーソンである亜細亜産業の元社長を直接取材し、自分の祖父が事件に関わっていたのではないかという衝撃的な内容。

いずれにせよ「自殺説」「他殺説」の主張は未だ分かれたままである。

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不自然な死

一方で上着や革靴内部には付着の痕跡が認められず、油の成分も機関車整備には使用しない植物性のヌカ油であった(当時は物資不足で、機関車の油に植物油を混入することは通常行われていたという反論もある)ことや、衣類に4種類の塩基性染料が付着していたこと、足先が完存しているにも拘らず革靴が列車により轢断されているなど、遺留品や遺体の損傷・汚染状況等に、矢田と法医学教室が「極めて不自然」と判断した事実が浮かび上がっていた。特にヌカ油と染料は、下山総裁の監禁・殺害場所を特定する重要な手掛かりになる可能性もあるとして注目された。

加えて、連合国軍憲兵司令部・犯罪捜査研究室 (CIL) でアメリカ軍所属のフォスター軍曹より、轢断地点付近に僅かな血痕を認めたとの情報を入手。そこで微細血痕を暗闇で発光させ、目視確認を可能とするルミノール薬を用いた検証を実施。轢断地点から上り方面(上野方面)の枕木上に、僅かな血痕を発見した。

その後、警視庁鑑識課を加えた上で改めてルミノール検証が行なわれ、轢断地点から上り方面の荒川鉄橋までの、数百メートルの間の枕木上に、断続的に続く多数の血痕を確認した。血痕は、最後に上り方向の線路へ移り途切れていた。

さらにその土手下にあった「ロープ小屋」と呼ばれた廃屋の扉や床にも血痕が確認されたため、これらの血痕は下山総裁の遺体を運搬した経路を示しているのではないかと注目された。しかし後の調査で、1946年2月から1948年5月まで所有者から釣り糸製造業者が借り受け、その間に薪割り中に斧で大けがをしたため血痕が付着した事が分かった。

迷宮入り

しかしこれらの事実や痕跡、証言と、その分析には科学的、医学的根拠が欠けるものも多く含まれていたこともあり(実際に松本清張は医師免許や医学に関する学位の取得どころか、高等教育すら受けたことすらない)、他殺説・自殺説ともを結論を出さないまま、1949年(昭和24年)12月31日には「下山事件特別捜査本部」は解散となる。捜査一課は自殺との結論を出し発表しようとしていたが、発表されることはなかった。そしてヌカ油の出所の追跡などを執拗に続け、他殺の線で捜査を続けていた警視庁捜査二課も、1950年(昭和25年)には大幅に規模を縮小、捜査員も転任するなどして事実上捜査は打ち切られた。

1949年(昭和24年)12月15日に、警視庁下山事件特別捜査本部が作成した内部資料「下山国鉄総裁事件捜査報告」(通称「下山白書」)は、1950年(昭和25年)1月に「文藝春秋」と「改造」誌上に掲載された。自殺と結論付ける内容となっているが、矢田喜美雄や松本清張などは、報告書の内容に矛盾点や事実誤認を指摘している。1964年(昭和39年)7月6日、殺人事件である場合の公訴時効が成立した。

ウィキペディアより引用

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