【2000年5月3日】西鉄バスハイジャック事件の謎に迫る!

スポンサーリンク




全国を震撼させた事件の最前線いた「高速バス乗っ取り事件」高速道路を舞台に、少女に刃物を突きつけた17歳の少年と広島県警が繰り広げた攻防。両腕で輪を作り作戦成功を知らせた人物こそ、当時の広島県警機動捜査隊隊長だった。

事件の背後で彼ら機動捜査隊はどう動いたのか?

西鉄バスハイジャック事件

事件発生は2000年、5月3日午後1時35分

高上機動捜査隊長はこの時から少年の説得に当たり、逮捕の瞬間に立ち会うことになる。

午後5時50分、少年への説得が始まった。

窓を隔てて、殺気立つ少年に話しかける。

少年は刃渡り30センチの牛刀を6歳の少女に突きつけていた。

バスの中には負傷者はもる。

一刻を争う状況に、現場の空気は張りつめていた。

体長は車内の様子を逐一本部に伝えていた。

日付が変わる5月4日、人質たちの緊張と疲労はピークに達していた。

真夜中、少年が手にした凶器が不気味に光る。

残された道は強行突入だった。

スポンサーリンク




強行突入開始

午前4時半、あたりに薄明かりが広が頃、隊長が動いた。

突入のチャンスは、少年の注意が少女から逸れた一瞬。

その一瞬をどうやって知らせるのか?。

隊長は白い手袋を投げる、それが突入の合図と決められた。

タイミングを計るのもちろん隊長。

密かにバスの後方にワゴン車が止められた。

少年からは死角となる。

突入部隊は、音もなくワゴン車の影に移動。

車内を伺っていた隊長から接近せよの指示が出た。

機動捜査隊の精鋭を含む、バスの突入部隊がバスに忍び寄る。

あとは隊長の合図を待つばかり。

白手袋が投げられた。

隊長の左手、合図の手袋が手をを離れると同時に閃光弾が投げ入れられた。

犯人の少年はひるんだ隙に、突入部隊が凶器を奪取。

そして逮捕。

作戦計画は淀みなく進行した。

一人は刃物を奪い取ったことを知らせ、続いて少女が救出された。

後部非常部からは、15時間半ぶりに助け出される乗客達。

突入からわずか2分。

銃刀法違反、人質による強要行為等の処罰法違反で17歳少年を現行犯逮捕。

その逮捕劇は繰り返し報道されることになった。

だが事件解決の舞台裏で作製成功の鍵を握った
広島県警機動捜査隊の活躍を知る人は少ない。

動機

少年は中学校でいじめに遭遇し、家庭内暴力で家族を悩ませた。親が学校にいじめの相談をするが、当の学校や教育委員会はいじめの事実を認めなかった。高校受験が目前に迫った1998年1月、クラスメイトたちの挑発を受けて、踊り場から飛び降りるも着地に失敗して腰椎を損傷する重傷を負い入院[2]。病室で佐賀県立致遠館高等学校を受験して合格したが、入学後、校風が合わないという理由で9日だけ登校し、5月にすぐに中退してしまった。

不登校となった少年は大検を目指していたが[3]、親にパソコンをねだり、2ちゃんねるに寝食を忘れるほど熱中、家庭内暴力がますます悪化していく。飼い犬を叩き、父親に名古屋・大阪などへの日帰りドライブを頻繁に強要された[3]。周辺住民も、少年の妹の悲鳴も聞いている[3]。危険を感じた親が警察や精神科病院に相談するも、事件を起こさない限り対処できないと双方から断られてしまう。そこで最後の頼みの綱として、頻繁にテレビに出演して著書を出している町沢静夫精神科医に連絡を取って相談、町沢精神科医は親にも少年にも一切面会しなかったが親からの要請を受けて2000年3月5日、佐賀県警国立肥前療養所に電話した。肥前療養所はすぐに少年の医療保護入院を許可し、即日入院となった。

国立肥前療養所に入院が決定した時、少年も親に絶対許さないと発言していたが実際に入院すると、医療スタッフや他の入院患者たちにも礼儀正しく家庭内暴力で家族を悩ませていたとは思えないほどしっかりしていた。やがて、少年と親と医者と話し合いの上で少年の外出許可が出た。病院に帰ってから、愛知県で少年が老夫婦を殺傷する豊川市主婦殺人事件を知り、少年は手記にこの少年犯を褒め称え、自分も早く少年のようになりたいと書いた。この手記の内容をまったく知らなかった医者は、少年の外泊許可を出した。帰宅した少年は当初、自分がいじめを受けていた母校の中学校において無差別殺人を行う予定だったが(各教室で生徒を刺して籠城し、注目を浴びたら飛び降りて死ぬつもりだった[3])、ゴールデンウィークで休校だったため、バスジャックへと目的を切り替え実行に至ることとなった。

スポンサーリンク