「燃えよドラゴン」ブルース・リーが誕生するまでのストーリーに迫る!

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その男は言った「考えるな!感じろ!」

なぜ人々は彼の映画に夢中になるのだろう?

男の名は「ブルース・リー」映画スターにして武術家。

1973年8月29日、一本の映画がアメリカ「ハリウッド」のチャイニーズシアターで公開された。

ブルース・リー主演「燃えよドラゴン」

燃えよドラゴン

ブルース・リー演じるカンフーの達人が、悪の巣窟に潜入!

自らの肉体一つで強大な敵を、次々に倒していくアクション映画。

怪鳥音と呼ばれた異様な声。

衝撃的なヌンチャクの手さばき。

そして、その迫真の格闘シーンに観客は度肝を抜かれた!

映画は、公開されるや否や大ヒット!

全米で4週連続第一位を記録した。

実は、映画の公開初日ブルース・リーは、すでに亡くなっていた。

享年32歳の若さだった。

チャイニーズシアターには、多くの関係者が詰めかけ、その死を悼んだ。

敵役を演じた、ボブ・ウォール彼は、ブルースが映画に注ぎ込んだ、ある思いを知っていた。

「燃えよドラゴン」ブルース・リーの誕生秘話

アメリカ・ロサンゼルス

ブルース・リーが、ハリウッドで起こした革命を、まじかで見ていた男がいる!

ボブ・ウォール

当時、全米空手チャンピオンだった彼は、そのキャリアを買われ「燃えよドラゴン」に出演。

ブルース・リーの敵役を演じた。

ブルースがあの映画で目指した物とは何か?

それは、「燃えよドラゴン」のこのシーンです。

ウォールが見せたかったのは、ブルースが繰り出す一発の蹴り!

それが、これっだった!

この場面に一体どんな秘密があるのか?

なんと、この時後ろに居たエキストラが衝撃で骨折したというのだ

骨が、皮膚から飛び出していたという。

ブルースは、とてつもない力を持っていたのです。

ウォールが90キロ以上の屈強の男でなかったら、バラバラに吹っ飛んでいたでしょう。

ブルースが、フィルムに焼きつけ様としたのは、本当の武術家によるリアルな闘い。

ウォールは、これまでにない映画の誕生を予感したと言う。

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ブルース・リーが目指したもの

それは、まさにハリウッドアクション映画の革命だった。

何故なら、当時のアクション映画と言えば主役は勿論白人スター。

激しい銃の撃ち合いが売りのガンアクションや、派手なカーアクションが主流だった。

その中で、アジアの俳優が、しかも肉体だけで勝負する映画など、前代未聞だったのである。

どんなスポーツ選手や俳優でも人生の大一番があります。

それが、ブルース・リーにとっては「燃えよドラゴン」でした。

中国人の男が、世界的スターになれるかどうか、一か八かの映画だったのです。

1973年2月香港

ブルース・リー一世一代の勝負にとなる「燃えよドラゴン」の撮影が始まった。

監督や撮影スタッフが本場ハリウッドから集められる中、ブルース・リーは、また常識をひっくり返す。

ブルース・リーは主演俳優でありながら、自らアクション監督を務め全ての俳優のアクションを取り仕切った。

自分の理想を追求する為、徹底指導していったのだ。

ブルース・リーは完璧主義者

ブルース・リーは自分が完璧だと思うまで何度でも取り直したのです。

彼の完璧と言うのは、人とは違うレベルなのです。

まず下からのアングルを何度も撮ります。

次に上からのアングルも何度も撮るのです。

高い、低い、中くらい、遠くから、近くのアングルまで色々な角度から撮影します。

一回でどんなに上手く出来ても、それぞれ5.6回は撮りなおしていました。

ブルース・リーのやり方に驚いたのは、香港のスタッフも同じだった。

ブルース・リーの映画とは違って観客に痛さまで伝わるようなリアルさを求めていたのです。

ブルース・リーがリアルを求めた貴重な自筆のメモが残っている。

これは、ブルース自身が描いた絵コンテだ。

技の出し方、さばき方を事細かに記している。

ブルース・リー7はアクションシーンに膨大な時間を費やした。

その熱心さは、監督であるロバート・クローズでさえ驚くほどだった。

ブルースから、ホテルの部屋に電話がかかってくるのは決まって深夜0時過ぎだった。

彼は全く眠らないようだった。

監督は脚本や新しいアイデアについて深夜まで話し合ったのだ。

ブルースは、なぜそこまで自分を追い込んで、新たなアクション映画作りに挑んだのか?

彼は何と闘おうとしていたのか?

当時のハリウッドには、アジア出身のスターは一人も居なかった。

その頃、ハリウットの中心に居たのは、白人スターのロバート・レッドフォードポールニューマンスティーブン・マックイーンショーン・コネリーなどでアジアの俳優が入り込める余地はなかった。

当時、アジアの男はハリウットでは、出っ歯で、ちょっとマヌケというステレオタイプな表現。

しかも、そんな役ですら白人が変装してやっていたのだ。

そんなハリウッドの厚き壁に挑んだブルース・リー。

その道のりは、決して平坦ではなかった。

ブルース・リーの生い立ち

実は、ブルース・リーは1940年サンフランシスコ生まれ。

父は香港でも指折りの喜劇俳優で、その公演中の旅先で生まれた。

兄弟の中で一人子役として活動していたブルースは、自分の中に流れる俳優の血に誇りを持っていた。

だからこそ、ハリウッドでアジアの人々が、ないがしろにされて居る事に憤りを感じていたのだ。

ブルースの最初の出演は1966年「グリーンホーネット」順主役として一躍有名になった。

これをきっかけに映像の世界にのめり込んでいったブルース・リーは主役の座を目指し、自らカンフードラマを企画したのだ。

少林寺の僧がアメリカにやって来て、旅をするという物語で「燃えよカンフー」というテレビドラマになったのです。

それでも、主役はブルース・リー・・・とはいかず、またもや主役は白人俳優であった。

中国人の物語であったのにも関わらず・・・。

ブルース・リーを主役にしなかった理由

それは、理不尽なものだった。

彼はあまりにも中国人すぎる」・・・失望感に苛まれた。

その後も、ブルース・リーにオファーがあるものの、当然わき役ばかりであった。

当然すべて断った!だからこそブルースは、野心を燃やし悔しさを胸に香港に戻った。

実は、香港で主役のオファーがあったからである。

ブルース・リーは遠回りでも、再びハリウッドを目指すために選んだ道である。

そうして作り上げたのが「ドラゴン怒りの鉄拳」1972年

この映画では、ヌンチャクという斬新な武器を取り入れ、それまでにないアクションシーンを生み出したのだ。

そして怪鳥音!闘いながら発する「アチョ」の声も自らのアイデアであった。

続いて、古代ローマの格闘場を舞台に壮絶な闘いを演じた「ドラゴンへの道」1972年

本物の武術か相手に、肉体と肉体のぶつかり合いだけで観客を魅了するアクションを作り上げた。

映画は次々に大ヒット、香港で大スターとなり自らの目指すアクションは正しいのだと確信した頃だった。

そして、とうとう待ちに待った知らせが入る。

ハリウッドから主演映画のオファーが来たのだ!

そのプロデューサーが、ポール・ヘラーだった。

こうして、誰も見た事のないアクション映画「燃えよドラゴン」が生まれたのである。

彼の映画は、まるで魔法の様に観客を引き付けたのだ。

ハリウットスターを目指して10年近く、ようやく掴んだチャンスだった。

そして念願のこの日を迎えた・・・・

1973年2月香港「燃えよドラゴン」撮影開始。

 

 

 

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